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〜ゴジラーマガジンVOL2〜 華麗なプレーに隠された意外な真実(後編)・・・・



小山の明治大学時代の練習風景

社会人でプレーをして7年目、主将をして1年目の夏。身体に異常を感じるようになったんです。それまでの僕の主将としての自論は、プレーでチームを引っ張る事。やはり足が速くない分、攻撃ではアシスト的な役、ディフェンスではムードを盛り上げる為に、先陣を切って突っ込んでました。梅雨時になるとネジの入っている自分の右肩はずっしりと重い痛みを感じるようになり、なかなかその痛みも取れない。数年ぶりに横浜港湾病院の整形外科に検査に行きました。レントゲンの結果はというと、学生当時の鍛えられた筋肉(上腕筋)を移植して脱臼を防ぐ処置を行ったんですが、年齢とともに筋肉も衰えをみせ、またネジもほんのちょっと緩んでいる(私生活には影響ない程度)らしく、肩を回すと筋肉が間接に引っ掛かる・・・そんな現象が自分の右肩間接で起こっていました。

脳内に隙間が出来、水が溜まっている事が発覚・・・

担当医の先生からは、「ラグビーが仕事でないなら、もう辞めなさい。」の一言。それから数ヵ月後、練習試合で脳震盪・記憶喪失で退場。この頃から、そんなに大したぶつかり方してないのに、随分と脳に響くな〜という疑問は持ち始めてました。妻の進めもあり、脳外科医としては有名な横浜の新都市脳外科病院で精密検査を受ける事に。MRAや脳波の検査を行った結果、左眼くも膜の丁度裏側に500円玉大ほどの隙間が出来、そこに水(正確には髄液って言われた)が溜まっている事が発覚。実際に脳の断面写真を見せられましたが、写真を蛍光灯のパネルに透かした瞬間に素人の僕でも「何だかおかしい?」と思えるほど、真っ白い丸い影がそこにはあったんです。これって度重なる脳震盪が原因で、脳内に隙間が出来てしまったとの事。脳の中に隙間がある分、外部からの衝撃で脳みそ自体もブレ易くなって、軽い脳震盪を起こしやすくなるという仕組み。今のゴジラでいうコービーもその心配はあると思う。彼も一度検査しておいてほうがいいかも・・・ この病院の院長からは、「私生活には問題ないけど、くも膜が圧迫される分、左眼は疲れやすくなるだろう。家族もいて、仕事もあることだし、ラグビーは辞めた方がいい。最悪の場合、何かの衝撃で”くも膜下出血”を併発する恐れがあるからね・・・。」との事でした。

社会人リーグ優勝そしてラグビーに終止符・・・

しかし、主将として自分なりの構想でチーム作りをしてきて、ここで辞めたくはなかったんです。2年目の春に僕自身、この年でラグビー生活にけじめをつけようと思い、4月のミーティングである提案をしました。それは、4月からシーズンが終わるまで練習・合宿・試合の全てをビデオに収め、最後に編集してみんなの活躍を映像として残そう・・・と。ここまでの10数年間のラグビー生活でなんの証拠(というか努力の足跡)を残さずに来てしまったようで、何かしら映像として後に残るものが欲しかったという個人的な我がままでもありました。既に肩も頭も無理の出来ない状態だったので、ごまかしごまかしのシーズンにはなってしまいましたが、結果は関東社会人3部リーグ優勝、2部との入れ替え戦もロスタイム逆転勝ちという奇跡的な勝利で自分自身のラグビー生活に終止符を打つことが出来たんです。もちろん、記念のビデオは今でも大事にしまってあります。その後、2年間はラグビー部のお手伝い程度で実践からは遠ざかっていたんです。そしてアメリカ転勤。

社会人では既に体はボロボロだった・・・

サンディエゴへ転勤、木村会長との出会い・・・


初めての転勤がサンディエゴでした。偶然にもうちの会社のオフィスには山下君という日本人の現役ラグビー選手がいたんです。彼の存在、そしてここから始まる木村城治という男との出会いが、アメリカ生活を大きく変えてくれました。同僚の山下君が”小山さん、一緒にラグビーしましょうよ!”と笑顔で僕を練習に誘い出し、平日の仕事後に公園で2人でランパスなんかもやってたなぁ。ある時彼が、「ロスに日本人のラグビーチームがあるんですよ。今度一緒に練習行きませんか?」っていつもの笑顔で誘ってきたんです。しかし、僕の心の中では「もうラグビーの試合はしない」と決めていたので、あっさりと誘いを断ってました。ところがいつからだったろうか、ゴジラの練習に関するメールのやり取りが何故か自分のPCにも転送されてくるようになっていた。どうやら山下君がゴジラの練習か試合に参加した際に、僕のアドレスも彼ら(そう、城治)に渡したのだろう。「ゴジラがラスベガス大会に参加した。全敗だった。ゴール正面のキックをサムが外して泣いた・・・」いろんな情報が飛び込んできて、僕の中で迷惑半分、勝手な想像を繰り広げていました。とどめは仕事で行った松下電器の事業説明会の会場で、偶然にも隣りの席に木村城治が座った事だった。会議の後、彼はしつこく僕の事をロビーで待ち、「一度ゴジラの練習に来ませんか?」「僕が運転していきますから・・・」等々、延々と15分は足止めを食らって説得を受けてました。その熱意に負けて、取りあえず1度練習に顔を出すことにしたんです。条件は「@タックルはしない、A試合にも出ない」 これが2001年の3月。みんなの誘いを断りつづけて1年半後の出来事です。

TDKでは主将としてチームを引っ張った。
練習はタッチフット主体のとても楽しいものでした。しばらくぶりに身体を動かすと、思ったほどに動けない自分がとっても情けなかった。でもみんなのラグビーを楽しむ姿をみていて、今まで経験していた”勝たなければ・・・”というラグビーではなく、プレーを心から楽しむ・・・そんな空気が伝わってきて、今までに経験したことの無い新鮮さを覚えたんです。こんなラグビーの楽しみ方もあるんだって。ましてや、みんなが違った環境に身を置いて、いろんな方面の話が聞けてその日の経験全てが新鮮だったんです。ずうっと心の奥底で種火のように燃えてたラグビーへの想いがこんな所で”ぱっ!”っと火がついちゃったんですね。彼らから色々と得る事が出来る分、プレーに関しては色々と教えてあげたい。そんな想いさえありました。その年のシーズン、やっぱり運動不足がたたって肉離れに悩まされる1年間でした。もちろんタックルもほとんどしない、ごまかしラグビーだった。

悩みながらも自分に挑戦・・・


2年目に入ると、サムの努力の功も奏し驚くほどチームがまとまってきたような感じでした。1戦、1戦が気の許せない緊迫したゲームの繰り返しだった。こういう厳しい状況になってくると、チームのみんなが本気で戦っているのに、タックルに行けない自分が「情けない、悔しい、チームに迷惑掛けている」そんな感情がつきまとうようになってきたんです。特にシーズン後半の接戦の時に自分が止めるべき相手を止められずに点を取られる場面が増え、ある思いが取りまとうようになってきたんです。「中途半端にやるなら、やらない方がいい」と・・・。そんな悩みを引きずっている時に、シンにこう言われた。「小山さんの悩みは贅沢な悩みだ!」って。確かにそうかも知れない。でも考えれば考えるほど答えが見えなくなっていく自分がこれまたイヤで仕方なかった。続けるべきか?辞めるべきか?そんな時に救いの手を差し伸べてくれたのは、結局チームみんなの笑顔だったのかもしれない。今辞めてしまえば、この楽しい場に身を置くことが出来なくなってしまう。ただそれだけが惜しくて踏みとどまった? サムが、コービーが、「チームが小山を必要としている」という究極の説得(笑)に止められた?よく判らないけど、今まだプレーしているのは事実。「小山はタックルしなくてもいい。その分、攻撃で点数を取ってくれれば・・・」そんなお言葉も大きく僕自身の考え方を変えてくれました。

自分のラグビーが今わかった。

学生時代の自分の役目は”ディフェンス”だった。今は違う。ディフェンスが駄目な分、攻撃でチームに貢献出来る存在になればいい。決して足は速くない。であれば、相手の裏にでて外に繋ぐ、それをしっかり出来るプレーヤーになるしか、僕がゴジラというチームで役に立てる事は無い。その為にサンディエゴのチームの練習にでて、何度も繰り返し外への半ずらしの練習をし、徐々にスピードアップを図ってやっと今の形になってきたんです。高校・大学・社会人の時とは全く違うプレースタイルの自分がここにあり、今はその練習の成果を1つ1つ実践の中で結果として出せるよう頑張り、僕の出したパスで、チーム皆が1つでも多くのトライを上げる事が出来れば、それが自分に取って一番の満足なんです。それが周囲から「華麗なプレー」と言われるなら、それも幸せな事ですよね。 チームのみんなが自分のプレーに拘りをもって、それをチーム内でうまく機能できるように微調整しながら向上目指して練習を続ければ、おのずとすばらしい結果がでて来ると思う


学生時代は、ディフェンスで活躍をしていた。

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